バスケで恥をかきたくなかった小学~中学時代前半
僕は、4兄弟の末っ子です。
一番上とは9歳離れており、一番近くても5歳離れていて、兄弟に混ざって運動をする機会が多かったこともあってか、誰に教わったわけでもないのに、人よりもバスケが上手かった子でした。
地元のスポーツ少年団に入り、バスケ部として活動していましたが、自分より年上の先輩たちに圧倒され、初めは練習に顔を出さない日も多くありました。
今思えば、これが自分のコンプレックスに対する逃げだったのだと思います。
その後、普通に練習に行くようになり、試合に出て、気づけばキャプテンになったあとも、重要な場面で逃げるという癖は直りませんでした。
自分が下手だと思われたくなくて、強い人には挑まない。
自分が点を取らないといけないのに強いチーム相手だとパスをしてしまう。
そんな気弱な性格でした。
それは中学に入っても続きました。
小学校のコーチに誘われて、部活をやりながらクラブチームに入った僕は、
それまでとはわけが違うレベルの人たちとバスケをすることになりました。
文字通り全国レベルの練習に混ざることになったのです。
部活では1年生のころからユニフォームをもらっても、
クラブチームでは逃げてばかり。
結局またさぼっていました。
自分が下手だと思われたくない、
下手なことをして恥をかきたくない
というコンプレックスからくるものでした。
あまりにもクラブチームの練習をさぼっていたので、
母は大激怒
「そんなことならやめちまえ!!!」
このセリフで、逃げる選択肢を僕は見失いました。
バスケが下手でも上手くなればいいと開き直った中学後半~高校時代
逃げる選択肢をしていても、
他の人から良く思われたいという気持ちは持っていた結果か、
練習で頑張ればほめてもらえ、
その後クラブチームでもキャプテンになっていました。
下手でも頑張れば上手くなれるとこの時気が付きました。
クラブチームのコーチが言った一言を今でも覚えています。
「お前が一番頑張っている。お前の頑張りに回りがついてくる。下手でも頑張れ。上手くなる。頑張れないやつは上手くなれない。」
そう言われてから、自分に自信が出てきました。
『下手に見られて恥をかきたくないなら、逃げるのではなく上手くなればいい。』
ダメな自分を隠すのではなく、ダメな自分を克服していく
という前向きな気持ちになれました。
地元の強豪校からのオファーもあり、特待生として高校へ進学することになります。
特待生としてはかなり下手くそで1年生の間はユニフォームすらもらえませんでしたが、
2年生の初めで初めてユニフォームをもらい、そのまま決勝戦でも試合に出場するようになり、
高校でもキャプテンとなりました。
優秀選手にも選ばれました。
人よりも頑張れたのは、恥をかきたくないというコンプレックスただ一つだったわけです。
コンプレックスのおかげでバスケがうまくなったと、今では自信を持って言えます。
低偏差値だからと馬鹿にされたくなくて受験勉強した高校時代後半
高校バスケを引退し、受験勉強のシーズンが来ました。
6月下旬にバスケを引退した僕は、燃え尽き症候群となり、受験勉強に手をつけられませんでした。
ようやく手を始めたのは、8月の下旬を迎えるころでした。
受験勉強を経験した方は知っているかと思いますが、8月から受験勉強はかなり遅いです。
しかもE判定の大学を志望しているのだから、周りの人が反対するのも無理はありませんでした。
「無理だよ」
「今からじゃ間に合わない」
そんな声を耳にしました。
その声を聞いた僕は、あきらめるどころか、確実に受かるための逆算をして、人と違う勉強法をしました。
結果、公募制推薦試験(枠8名)で国立大学に合格しました。
高校の偏差値はたったの40。
受かった大学の偏差値は60でした。
元々、高校受験をしていなかった僕は、勉強に対してもコンプレックスがあり、
親に負担をかけてきたという気持ちと、兄の浪人・留年も相まって、必ず国立大学に進学するという目標と立てていました。
そこにも、人から認められたい、すごいと思われたいという気持ちが見え隠れしています。
偏差値40の高校から偏差値60の大学に進学することって
もはや奇跡だと言われていました。
(創立以来の快挙だとも)
この出来事は、僕の学力コンプレックスをさらに強くしてしまいます。
『頑張れば国立大学に行けるのに、勉強もろくにしないで、困っている連中と一緒になりたくない』
と思うようになりました。
それと同時に、せっかく国立大学に行ったんだから、
人よりも稼げるようになりたい、自分は優秀だと証明したい
という思いを持つようになりました。
続く…
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