

小学生時代:「逃げマインド」との出会い
私は4兄弟の末っ子。
年の離れた兄姉たちに囲まれて、にぎやかに育ちました。
小学校2年生の頃、バスケ部のキャプテンでもあった姉の影響で自然とボールを触るようになり、周りよりも少し上手にバスケができました。
それもあり3年生でバスケ部に入ったけれど、先輩たちの迫力に圧倒されて、練習をサボる日々。
今思えば「逃げグセ」の芽生えだったかもしれません。
しかし、5年生で試合に出るようになり、6年ではキャプテンに。実力はチームで一番。
それでも、他の強いチームを前にすると“ひるむ”自分がいました。
選抜に選ばれてもパスばかりして、自分は前に出ない。
そんな「負けマインド」を背負ったまま、小学生最後の試合は大差で敗北。
逃げマインドは中学でも引きずることになります。
中学生時代:全国レベルに心が折れかける
中学に入っても、負けマインドが尾を引きます。
1年生から試合に出場し、小学校時代のコーチに誘われてクラブチームにも加入。
ところがそこは全国レベルの猛者たちが集う場所で、私は圧倒的に下手でした。
練習には顔を出さず、逃げてばかり。
そんな私に、母がついにブチギレました。
「そんなに嫌ならやめちまえ!!」
この言葉に、私はハッとします。
叱られるまでは逃げてきたのに、辞められるという選択が目の前に出た瞬間、“やめたくない”という気持ちに、初めて気づきました。
そこから、腹をくくって練習に取り組むようになりました。
そこから少しずつ“逃げマインド”が薄れていきます。
「自分は下手だから、人より努力しなくては」
そう思って、誰よりも走り、誰よりも声を出す毎日。
クラブチームではキャプテンに志願し、チームの誰よりも泥臭いことに取り組みました。
部活では十数年ぶりに県大会出場、高校も特待生として入学することになります。
高校時代:努力が人生を変え始めた
高校は地元の強豪校に特待生として進学。
とはいえ、特待の中では自分がダントツで下手くそでした。
1年生の間は試合に出場するどころか、2階席で応援してばかり。
でも、練習だけは絶対にさぼりませんでした。
家が近いこともあり、一人残って自主練をすることも多々あり、少しでも効率よく上達するために考えることを止めませんでした。
そして2年の春、初めてユニフォームをもらい、そのまま決勝戦でも出場するようになりました。
夏になり、ゲームキャプテンを任されるまでに成長し、関東大会ベスト8、県の優秀選手にも選ばれました。
この成功は、あのとき母に叱られて、本気で練習に向き合った“あの日”があったからこそだと思っています。
理学療法士を目指し始めて芽生えるコンプレックスと野心
高校2年生の夏ごろ、ふと将来を考えました。
「将来はバスケにも関われる仕事がしたい。でも教師として教えるのは違う。」
漠然と医療系に進みたいとも考え、色々な道を考え、理学療法士になりたいと思うようになりました。
当時はプロバスケというのも現実的ではなく、大学で続けるつもりもなかったため、勉強して国立大学で理学療法士を学べるところに進学を目標にしました。
これまで特待生とは言え、不自由なくバスケットをさせてくれた両親への負担を少しでも減らせるようにという気持ちもありました。
しかし、現実は甘くなく、当時の私の偏差値は50程度。
目指す大学は偏差値60。模試はいつもE判定。
3年生の6月にバスケ引退後も燃え尽きて、しばらく勉強できませんでした。
本格的に始めたのは8月末。受験まであと数ヶ月。
周囲からは「無理だよ」「今からじゃ遅い」と言われたけれど、私は諦めず、独自の方法で猛勉強を開始。
結果――
高校偏差値40から、偏差値60の国立大学に逆転合格。
創立以来の快挙だったそうです。
この合格をきっかけに、僕の中に2つの強い感情が生まれました。
- 「頑張れば結果は出せる」
- 「せっかく国立に行ったんだから、人よりも稼げるようになりたい」
今思えば、これが“学歴コンプレックス”と“劣等感”を生むことになったのかもしれません。
その2つで私はかなり苦労することになります。
続く…
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